会社の広報職、大学生、大学院卒の会社員、元競泳選手、元アイドル。彼女たちはなぜセクシー女優になったのか。公開された本人インタビューやNoteを読む。
市川まさみには、会社や所属女優を知ってもらいたいという広報の意識と、自分の人生に目標をつくりたい気持ちがあった。宍戸里帆は、いったん封印した憧れを大学時代に思い出し、自分で事務所を探して応募した。藤かんなは、才能を生かせる舞台を求めて動き出したあと、家族、会社、将来をめぐる不安のなかで何度も決断をし直した。
本稿では、本人の語りを、①選択肢として意識するまで、②実際に決めるまで、③始めた後に意味づけ直すまで、という三つの時間に分けて読む。
同じ人物でも当時の説明と後年の振り返りでは理由の焦点が変わることがある。その差を矛盾として消すのではなく、いつ、どの立場から語られたのかを残すこともこのテーマを読む手がかりになる。
確認日:2026年9月10日(JST)
選択肢として意識するまで
この段階で見るのは、以前の進路や仕事のなかでAV出演が「自分にもあり得る選択肢」として浮かび上がった経緯である。
宍戸里帆:封印していた憧れを、もう一度自分の前に置く
宍戸里帆は、中学二年生の頃にAVという世界に触れ、職業として惹かれた。しかし周囲にからかわれ、理解されないものとして扱われるなかで、その気持ちをいったん自分の内側へしまい込んだ。大学では教授や研究者の進路を思い描いたが、学問や大学への違和感、自分は特別ではないという感覚が重なり、封印していた想いが再び意識に上がったという。[1]
宍戸は街頭の勧誘やスカウトを避け、自分で事務所を探して応募した。応募前には、なぜこの仕事をしたいのか、どれほど真剣なのかを紙に書いて整理している。自分から応募した事実は迷いがなかったことを意味しないが、過去の憧れを自分の意思で選び直そうとした動きは、はっきりしている。[1]
本人の語りでは、学問への理想、周囲から離れている感覚、過去にしまった願望が同じ時期に重なり、そこから応募という具体的な行動へ移っている。
後年には、大学在学中と卒業後で、学業との両立を考えた撮影ペースから、もっと活動したいという働き方へ考えを変えたと語っている。
三上悠亜:芸能の世界に残りたい気持ちを、別の入口へつなぐ
三上悠亜は、アイドル活動で挫折した後も芸能の世界に残りたい気持ちを持っていた。一方で、別のアイドルとして一からやり直す道は見えず、アルバイト経験がなく社会に出ることへの不安もあった。AVの話を受けた時には葛藤があったが、この世界なら一番を目指せるのではないかという競争心が生まれたという。[2]
後年には、当時は有名になりたい気持ちが先にあり、AVを芸能へ戻るチャンスと捉えていたこと、女性マネージャーとの対話から女性支持や商品プロデュースの目標が具体化したことも振り返っている。後から見れば計画された転身に見えても、公開された語りでは、目標は活動のなかで形を変えている。
両親からは強く反対され、約三か月にわたって絶縁状態になった。その後、活動を重ねるうちに、デビュー時には漠然としていた仕事が自分にとって大切なものへ変わったと語っている。
新海咲:競泳を終えた空白から、身体の経験を使える仕事へ
新海咲は、長年続けた競泳を離れた後、目標を失ったような空白を経験した。接客やブライダルの仕事を経て、人に喜んでもらう仕事への関心が生まれ、自分の経験を生かして女性向けのボディメイクを広めたいと考えるようになった。そのための資金と、努力を知ってもらうきっかけが必要で、身体を見てもらえる仕事としてAVを選択肢に置いたと語る。[3]
新海は自分で事務所へメールを送り、複数のメーカーの面接を受けた。周囲から「AV堕ち」などと見られる反応があっても、本人の語りの中心にあるのは、競技後の空白と、競泳で得たものを別の形で使える場所を探したことだった。
別の仕事へ移ると、周囲はその落差を先に見ることがある。新海の記録は、その評価とは別に、競技を離れた後の空白から次の仕事を自分で調べ、資金や知名度の必要を考えた過程を示している。
実際に決めるまで
選択肢が見えても、出演が決まるまでには、説明を受け、誰かに伝え、失うかもしれないものを考える時間がある。
市川まさみ:広報する側から、表に出る側へ
市川まさみはSODの宣伝部で働き、所属女優のイベントを支えていた。[10] そのなかでユーザーから自分もデビューしないのかと尋ねられ、会社への電話や当時のSNS上の反応も目にしていたという。周囲の期待は、出演を現実の選択肢として意識するきっかけになった。[4]
ただし、会社に勧められたからというだけではない。自分が出演すればSODを知ってもらえ、ほかの出演者を紹介する流れもつくれる。広報として積み上げてきた仕事を、出演者として別の位置から広げたいという考えに、自分の人生にも目標をつくりたい気持ちが重なった。
決めた後に待っていたのは、家族へ伝えることだった。姉と母に先に相談し、父に話す場面では家から締め出されるのではないかと思うほど怖かったという。デビュー後のSNS等での否定的な反応も傷つけたが、市川は注目が集まる証拠として受け止め、応援してくれる人への結果と会社への貢献へ意味をつなぎ直した。入口の期待、職業上の解釈、家族への恐れが一つの決断に重なっている。[4]
会社の内側で出演者を紹介してきた市川にとって、自分が表に出ることは、仕事の役割を捨てることではなく、別の位置から広報を続ける試みでもあった。
藤かんな:事務所が決まっても、決断は終わらない
藤かんなは、大阪大学大学院での理系の学び、メーカーでの商品開発、幼少期から続けたバレエを背景に、自分の能力や経験を生かし、より大きな舞台で見られる仕事を求めた。AV女優になる方法を自分で調べ、複数の事務所へ連絡している。[5]
三社目の事務所で、社長の仕事観や女優への熱意に触れ、この人と仕事をしたいと感じた。芸名が決まり、宣材写真を撮ったことで、新しい自分が形になっていく。しかしメーカー面接へ進むと、親や会社に知られること、AVで売れなくなった後の生活、恋愛や結婚の可能性が現実の問題として迫った。
藤は、やりたい気持ちを奮い立たせる日と、なぜ自分がAVをするのか分からなくなる日を行き来し、メーカー面接後には事務所へもう少し考えさせてほしいと伝えた。その後、グラビアの機会を引き受け、「このままで終わりたくない」「大きな舞台で見てもらいたい」という気持ちを確かめ、AV出演への決意を立て直していく。応募、面接、グラビア、出演は一度の決断ではなく、何度も選び直す過程だった。[5]
後年の回顧でも、藤は理由を一つの言葉に固定できないと語っている。
澁谷果歩:好奇心と覚悟
澁谷果歩は新聞記者、編集・校閲、英語教師を経験した後、新しい副業を探してアダルトグッズのモニター求人へ応募した。AV女優を目指していたわけではない。面接ではモニターだけでなく、手軽で高収入の仕事やヌードモデルの説明を経て、AV出演の話へ進んだ。宣材写真の後に不安が生じても、好奇心や人に話せる経験になるかもしれないという気持ちは残ったという。[6]
澁谷は、ここまで来たら逃げてはいけないという趣旨の言葉を受け、断った後に追いかけられるほうが怖いと感じて覚悟を決めたと回顧している。大きな胸へのコンプレックスを仕事にすることで楽になれるかもしれないという自己理解もあった。
矢埜愛茉:半年間考えた後も、公表まで不安を抱える
矢埜愛茉は、芸能活動を続けるなかで新しい仕事を求め、出演オファーを受けた。すぐには決めず、約半年間、事務所と利点・不利益を話し合った。グラビア中心の活動より、セクシー女優になったほうが雑誌、ラジオ、テレビなど、やりたい仕事へ広がる可能性があると考えたという。[7]
姉には早い段階で相談したが、母に伝えたのは撮影が進んだ後だった。契約から情報解禁まで、以前の名前で活動を続けながら新しい仕事を隠し、ファンへの後ろめたさ、世間からの見られ方、作品が売れなかったらどうしようという不安を抱えていた。
半年間の検討があっても、決めた後の孤独は消えない。
矢埜の場合、決断は情報解禁で終わらない。以前の名前での活動を続けながら、新しい仕事を公表する日まで自分の選択を抱えた。その期間の不安と、仕事の幅を広げたいという積極的な目的は、同時に存在していた。
始めた後に、仕事の意味を結び直す
出演を始めた時点の理由が、その後も同じ形で残るとは限らない。現場の経験、周囲の反応、別の表現との出会いによって、続ける意味や辞める意味が後から生まれる。
戸田真琴:映像への関心と、自己像の組み替え
戸田真琴には、大学へ進んだ頃から映像をつくりたい気持ちがあった。一方で、自分が普通の人生を送れるとは思えず、映像を仕事にすることを諦めかけてもいた。奨学金の返済や生活上の必要、身体や他者との関係をめぐるコンプレックスも、出演を考えた背景として語られている。[8]
戸田は、人生が行き詰まった感覚から、自分をいったん捨てて別の自分になりたいと考えた時期を振り返っている。ところが活動を続けると、AV女優として期待される人物像と、映画や文章で表現したいことの間にずれが生じた。やがて、自分は自分として生きてよいと感じ、AVに出演し続ける必要はない、辞めてもよいと思えるようになる。出演は最終回答ではなく、別の表現へ進む途中の選択になった。[8]
生活上の必要、映像への関心、自己像の揺れ、活動後に見つけた表現が、時期ごとに違う重みを持っている。戸田の転換は、始めた理由が後から別の問いへ開かれる例として読める。
倉多まお:理由が言葉にならないまま始まり、仕事の手応えが生まれる
倉多まおは応募で業界へ入ったが、なぜ応募したのか自分でも分からず、給料への関心はあってもAVについて詳しい知識があったわけではないと語る。初撮影後には後悔や世間の否定的な見方にも直面した。
それでも、監督に本音を伝え、スタッフと作品をつくる過程を経験するなかで、ドラマ作品への出演を仕事として実感するようになった。最初の動機が曖昧でも、働くなかで意味が形成されることがある。逆に、強い意志で始めても、後から別の道を選ぶこともある。[9]
倉多は、仕事を選んだことを肯定しながら、将来また後悔する可能性も語っている。現在の納得を過去の迷いの否定にせず、意味が変わり続けるものとして受け止めている点に、この事例の静かな強さがある。
選択肢・決断・意味づけ
ここまでの9名は、同じ理由を共有する集団ではない。宍戸里帆のように過去の憧れを選び直す人、三上悠亜や新海咲のように前の活動で得たものを別の場へつなぐ人、市川まさみや藤かんなのように期待と不安の両方を抱えて決める人がいる。澁谷果歩と矢埜愛茉の語りからは、入口の説明や公表までの時間を、本人の動機とは別に検討する必要が見える。戸田真琴と倉多まおは、始めた後に仕事の意味が変わる可能性を示す。
彼女たちはいつ選択肢を意識し、何を求め、何を恐れ、どんな情報を受け取って決めたのか。そして始めた後、その選択の意味をどう結び直したのか。三つの時間を追うことが、本人を「転落」や「成功」の一語に閉じ込めず、その人自身の語りとして読むための出発点になる。
脚注・出典
- 宍戸里帆「#1 AV女優の事務所に応募してみた」、#2 私は何故AVに出たいのか(1/2)、#3 私は何故AVに出たいのか(2/2)、#4 事務所での面接、AV女優人生・第二章スタート — note、2021年11月15日〜2024年12月17日。閲覧日:2026年9月9日。 ↩ ↩
- 三上悠亜「私が芸能界で不祥事を起こしてAVデビューした理由」および2ページ目、「港区に嫌気が差した」「LINEを整理して、彼氏とも別れた」2ページ目 — 文春オンライン、文藝春秋、2021年1月3日・2023年6月24日。閲覧日:2026年9月9日。 ↩
- 新海咲「元競泳ジュニア日本代表選手(21)はなぜAV女優になったのか」4ページ目、5ページ目、「これからどうやって生きていくん?」 — 文春オンライン、文藝春秋、2022年3月21日。閲覧日:2026年9月9日。 ↩
- 市川まさみインタビュー #1「新卒で入社した会社から『AV女優にならないか』と打診が…!?」、#2「『ちゃんと伝えないと』という思いはずっと持っていて…」、#3「体力は大丈夫だったんですけどメンタルが落ちちゃって…」 — 文春オンライン、文藝春秋、2022年5月31日。閲覧日:2026年9月9日。 ↩ ↩
- 藤かんな「AV面接、そして決意」、第1話 AVプロダクション事務所 面接巡り、第2話 エイトマンの面接、『藤かんな』の誕生、第3話 メーカー面接へ行くまでの不安な日々、第6話 AV女優への決意揺らぐ そしてグラビア、第105話 1st写真集『白鳥、翔ぶ』グラビア撮影in沖縄〜2日目〜 — note、2023年6月6日〜2024年7月6日。閲覧日:2026年9月9日。 ↩ ↩
- 澁谷果歩「プロ野球選手から『エロメガネ』と呼ばれ…」、2ページ目、3ページ目、「実兄から胸を触られ、母親からは…」 — 文春オンライン、文藝春秋、2022年3月27日。閲覧日:2026年9月9日。 ↩
- 矢埜愛茉「『どういうこと? セクシー女優って出てきたんだけど』」、インタビュー2ページ目、インタビュー3ページ目 — 文春オンライン、文藝春秋、2024年3月28日。閲覧日:2026年9月9日。 ↩
- 戸田真琴「育った環境の影響で、性的なコンプレックスがあった」2ページ目、インタビュー3ページ目、インタビュー4ページ目 — 文春オンライン、文藝春秋、2023年5月27日。閲覧日:2026年9月9日。 ↩ ↩
- 倉多まお「なぜ彼女たちはAV女優を『仕事』に選んだのか」 — 日刊SODオンライン、ソフト・オン・デマンド、2019年9月6日公開・2020年5月21日更新。閲覧日:2026年9月9日。 ↩
- SODの「女子社員」ものは、作品上の設定として扱われるものが多い一方、市川まさみはこの点で異なり、本人はSODの会社説明会をきっかけに入社し、最初は営業企画部、その後は宣伝部で働いたと説明している。2015年の同時期の報道でも、2014年に新卒で営業企画部へ入社し、宣伝部へ異動した「現役SOD社員」として紹介されている。文春オンライン「市川まさみインタビュー #1」、週プレNEWS「ゴッドタンで話題となった現役SOD社員・市川まさみさんが期待されすぎてデビュー?」 — 文春オンライン、文藝春秋、2022年5月31日/週プレNEWS、集英社、2015年7月6日。閲覧日:2026年9月10日。 ↩